ウクライナ侵攻 前編

2022.04.04

ソ連とは、1917年のロシア革命に端を発し、1922年に成立して1991年に消滅した「ソビエト連邦」のことです。
1つの国ではなく15の共和国で構成されていて、世界の陸地面積の6分の1を占める巨大国家でした。
それぞれの共和国には大統領が存在しましたが、その中でもロシアが実質的な主導権を握って支配していました。
1985年にはゴルバチョフが政権を取り、グラスノスチやペレストロイカを実行しましたが、経済は悪化し、
長年たまっていた共産党への不満が大きくなっていきました。
その結果、80年代後半から共和国が独立を求める動きが次々に起こり、
1991年12月にゴルバチョフ大統領は連邦政府が活動を停止することを宣言し、
同25日に大統領を辞任、最高会議も連邦の解体を宣言したことでソビエト連邦は崩壊しました。

ウクライナは1991年にソ連崩壊とともに独立し「ウクライナ」という国名に変更しました。
ロシアは15の共和国がNATO(北大西洋条約機構)に入らないという条件付きで独立を認めたのです。
この独立は武力衝突のないものでしたが、1990年の夏に大学生によるハンガー・ストライキが
キーウの「革命広場」(現独立広場)で行われ、当時のクラフチューク最高会議議長(初代ウクライナ大統領)が
学生達と会って話し合いをすることで解決されました。
ウクライナの人口は2021年現在で4,100万人を超え、面積は日本の約1.6倍あります。
ウクライナ東部と南部はロシアの支配下にあったため、ロシアとの結びつきが強くなっており、
ロシア語を話す人が多数を占めています。
一方で西部と南部はオーストリアやポーランドの支配下にあった歴史を見ても、欧米との関係が深くなっています。

国家語はウクライナ語で、産業の中心は農業です。
宗教も、ウクライナ正教および東方カトリック教、ローマ・カトリック教、イスラム教など多岐にわたります。
ウクライナは独立後、連邦分業体制が崩壊し原材料供給不足などが起こり、1990年代には生産の低下やインフレの急進を招きました。
しかしその後、2000年代に経済が回復し、鉄鋼輸出や内需拡大など急成長を遂げています。
2004年のオレンジ革命以降は、ウクライナ国内では親欧米派と親ロシア派の対立が続き、情勢が不安定になりました。
特に2014年2月にヤヌコビッチ政権下で起きた政変により、新ロシア派と親欧米派の対立が激化し、
その結果抗議運動の激化によってヤヌコビッチ大統領はロシアに逃亡、親欧米派の野党が暫定政権を樹立しました。
親欧米政権の発足に対し、今度はロシア系住民が人口の多くを占めるクリミア共和国がウクライナからの分離運動を起こしました。
これにロシアが軍事介入し、14年3月にクリミアのロシアへの併合を強行しました。
2019年に誕生したウクライナのゼレンスキー政権はNATO加盟方針を立て、親欧米路線を取りました。

ウクライナがNATOに加盟するとなれば、ロシアにとってはNATOがロシアとの国境に迫ることになり脅威です。
また、NATO加盟はEUへの加盟にもつながり、親欧米路線がより強まると考えられます。
ロシアはウクライナのNATO加盟を認めないとし、国境付近でロシア軍の増強が確認されました。
隣接するベラルーシにおいて両国の軍事演習も実施し、欧米との関係が悪化していきます。
そして、ウクライナとジョージアのNATO加盟を認めた、2008年NATO首脳会議の決定取り消しを求める声明をロシアが表明しました。
交渉も行われましたが、2022年1月にアメリカがこのロシアの要求を拒否する書面を公開。
するとロシアは2月、ウクライナ東部にある「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を承認し、ウクライナへの軍事侵攻を開始しました。
ロシアがウクライナを侵攻するまでには、さまざまな歴史的背景があります。
ロシアとウクライナは同じルーツを持つ兄弟国であり、元々はソ連の構成国でしたがソ連崩壊と共に独立しました。
しかしロシアのプーチン政権は、かつての大国復活を目指して勢力を取り戻すことを狙っています。
そのため、ウクライナのNATO加盟をなんとしても阻止したいのです。
プーチン大統領は、親ロシア派が占拠するウクライナ東部でウクライナ軍の攻撃からロシア住民を守りたいという正当防衛を主張。
ウクライナへの軍事侵攻を進めています。