香港の歴史と最近の情勢

2021.04.01

中国広東省の沿岸部、深セン市の南部に位置する地域を「香港」といいます。
香港島、九龍半島、新界と呼ばれる島しょ部に分かれていて、2017年現在の人口は約740万人。
市街地は香港島北部と九龍半島に集中していて、人口密度がきわめて高いことでも有名です。
周囲は天然の良港になっていて、古来より貿易拠点として発展してきました。
現在は観光地としても栄えていて、その数は年間6500万人以上。「百万ドル」と称される夜景は、「世界三大夜景」に数えられています。
中国の一部でありながら独自の行政機関をもち、独自の法律が運用されているのが特徴。
このように高度な自治権を認める制度を「一国二制度」といい、この制度が適用される地域は「特別行政区」と呼ばれます。
中国では、香港とマカオが「特別行政区」です。

香港が、特例といっても過言ではない「一国二制度」となった背景には、歴史が深く関わっています。
「アヘン戦争」後の1842年から1997年までイギリスの植民地だった香港は、経済をはじめとするさまざまな制度が中国本土と異なっていました。
イギリスから返還される際に、円滑に統治するために「一国二制度」を適用することになったのです。
その結果、法律の体系は植民地時代とほぼ同じで、中国本土とは異なり資本主義にもとづく政策が実施され、死刑制度もありません。
公用語は中国語(広東語)のほかに英語も用いられています。
政治的、経済的、文化的な差異があることから、香港には強権的な中国政府に対する不信感があるといわれています。
たとえば1989年に「天安門事件」が発生した際、香港議会は中国政府の武力行使に対するけん責を全会一致で採択、
各地で反発のデモもみられました。
中国本土ではタブーとなっている「天安門事件」の追悼も、香港では公におこなわれています。

2019年には、中国本土へ容疑者の引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」の改正案をめぐって、大規模なデモが発生。
催涙弾や火炎瓶が使用され、怪我人も多数発生する事態になっています。
香港周辺には、旧石器時代から人が居住していたと考えられています。
2006年に、香港東部の黄地ドウから約4万年前のものと推定される旧石器が見つかり、話題になりました。
その後、紀元前214年に秦が現在の広東省付近に進出して「南海郡」を設置。香港周辺も秦に支配されることになります。
しかし紀元前206年に秦が滅亡すると、紀元前203年に現在の広東省からベトナム北部にかけて「南越国」が成立。
一時、地域一帯が中国王朝から自立しました。

「南越国」は100年ほど続きましたが、その後漢に征服され、以後さまざまな中国王朝が香港周辺を支配します。
唐の時代には、香港近郊の広州市が貿易の拠点として発展。現在の新界一帯に「屯門軍鎮」が設置されました。
さらに明の時代になると、ポルトガル人などヨーロッパ人が来航。この頃から、史料内に「香港島」という地名が登場するようになります。
香港という名前の由来は定かではありませんが、一説によると
地域一帯が香木を集積する港湾として機能していたことからきているといわれています。
清の時代になると、イギリスと朝貢の形式で貿易をするようになり、広州が貿易の窓口に。
しかし三角貿易を通じてアヘンが清に密輸されるようになると、これがきっかけで1840年に「アヘン戦争」が勃発します。
結果は、イギリスが勝利。講和条約として1842年に「南京条約」が結ばれ、これによって香港はイギリスに割譲されました。
ここから約150年間、イギリスの植民地となるのです。

1856年に勃発した「アロー戦争」では、九龍半島南部もイギリスに割譲。
さらに「日清戦争」後は西欧列強による「中国分割」が進展します。
その過程で九龍半島北部と新界地域を99年間租借することが決まり、現在の香港全域がイギリスの統治下に置かれるようになりました。
イギリスは統治機関として香港政庁を設置。あわせてイギリス資本の進出にともない、
競馬場や大学、図書館、劇場などさまざまな設備が作られます。
その結果、中国本土とは異なる法制度や文化が発展していったのです。

1941年12月に「太平洋戦争」が勃発すると、開戦直後より日本が香港を攻撃します。
12月25日にイギリス軍が降伏すると、日本が敗戦するまでの約3年8ヶ月、香港は日本軍の軍政下になりました。
クリスマスにイギリス軍が降伏したことから、香港ではいまでもこの日を「黒色聖誕節(ブラック・クリスマス)」と呼ぶそうです。
日本は統治期間中、それまで使用されていた香港ドルを強制的に回収し、代わりに「軍票」を発効。
しかし無計画に「軍票」を発行したため経済が混乱し、さらに日本の敗戦で価値がなくなったため、その補償を求める抗議がおこなわれました。
日本軍が撤退した後は、再びイギリスによる統治が再開されます。

「国共内戦」を経て中華人民共和国が成立すると、社会主義をきらった中国人の資産家や、
経済の混乱や弾圧から逃れようとした人々が香港に流入。
彼らは「逃港者」と呼ばれ、この資本と労働力の流入が、戦後の発展の基盤となりました。
1970年代後半になると、租借期限が近付いたことで今後の香港の在り方が議論されるようになります。
イギリス首相だったマーガレット・サッチャーと、中国の指導者鄧小平の間で交渉がおこなわれます。
この時サッチャーは租借の継続を目指しましたが、鄧小平は武力行使もちらつかせて反発したそう。
交渉は最終的にサッチャーが折れる形でまとまり、1984年に「中英共同声明」が発せられ、
「1997年にイギリスから香港が返還されること」「返還後50年間は社会主義政策を実施しないこと」
「外交と軍事以外の面で高度な自治を保障すること」などが決められたのです。
この声明にもとづき、香港は1997年7月1日にイギリスから返還。
「中華人民共和国香港特別行政区」が成立しました。しかしその後、中国政府による干渉が強まりつつあり、
これが後述する「逃亡犯条例」改正への抗議デモ拡大に繋がっていくのです。

「逃亡犯条例」改正に対する抗議デモが拡大する背景には、いくつかの原因があります。
まずひとつ目は、先述した中国政府に対する不信感です。香港には「逃港者」のように中国政府から逃れてきた人々が暮らしています。
しかしイギリスから中国に返還された後、徐々に言論統制や選挙干渉が生じるようになり、
強権的な中国政府によって自分たちの自由が奪われることを警戒するようになっていったのです。
ふたつ目は、香港で暮らす人々は、その歴史的な経緯から自分が「中国人」だという意識をあまりもっていないことが挙げられます。
2019年6月に香港大学が実施した調査によると、18歳から29歳の若者の75%が「自分は香港人」と回答した一方で、
「自分は中国人」と答えた若者は2.7%にとどまりました。中国本土と香港では歴史的な背景が大きく異なり、
帰属意識についても大きな隔たりがあります。これも中国政府への反発に繋がっているといえるでしょう。

2019年、香港では「逃亡犯条例」の改正問題をきっかけに抗議デモが起こりました。
抗議デモの発端となった「逃亡犯条例」の改正についても、大きな問題点が指摘されています。
そもそも「逃亡犯条例」は、香港が協定を結んだ国や地域に、罪を犯した容疑者を引き渡す制度です。
2019年現在、香港はアメリカなどと協定を結んでいる一方で、中国本土やマカオ、台湾などとは協定を結んでいません。
しかし2019年2月、香港議会でこれらの地域とも容疑者の引き渡しを可能にする改正案が提出されました。
この改正によって、中国当局が香港市民を取り締まることができるようになったのです。
中国政府に批判的な立場をとる人物が、中国本土に引き渡される可能性が出てきました。

長い間認められてきた香港の自治が揺らぐことに対する警戒心や反発が、デモの原動力になっているといえるでしょう。